多様性は同一性を前提とした場所には生まれない。
一部、落合陽一氏と高橋祥子(gene quest)のNEWS PICSの対談からの引用です。
多様性にはユニバースの定義が必要であって、例えば「近い、という言葉にも、相対化された観念としての「遠い、があって初めて成立する。
・性はもともと二つであった。
過去、原始生命は自身のコピーを作る無性生殖であって、男女という性の違いはなかった。
これから数億、ないしは数十億というタイムスパンの中で、第三の性が生物に表れる可能性はある。
・もともと外国人だった(高橋氏)
高橋氏は帰国子女である。日本にはフランスにはない同調圧力があった。全員でトイレに行かないといけないとか、つらかった。
・僕の話は分かってくれてる、というスタンスで話してけてはけない。
多様性社会はそういう習慣がない。
結果、他人への執着へのきっかけとなる。
共感社会は痛みを共有するから、さらし首という風習が重要性を持つ。
個人的に共感を前提とした話し方をする人は、その社交性ゆえに僕のような内向性の強い人間にとって傾向が合致しないことが原因だと思っていたけど、それは多様性という感覚が欠如した故の共感前提型のコミュニケーションをとられているからであって、物心ついたときには僕以外の全員が僕とは違う言語を操り、完全なコミュニケーション不全により無能感、絶望感、孤独感に閉ざされた僕の人生の原点からすると、まったく正反対の感覚を持っているからだ。
僕にとってコミュニケーションとは成立しない、共感、合意などできないという前提があって、そこの障害を想定しないこと自体に困惑を覚えてしまう。
ぼく個人の話をすれば、高橋氏と同じく、帰国子女なこともあって同調圧力への忌避感というか、根源的な気持ち悪さというのは強かった。
僕が住んでいたのがアメリカ西海岸の比較的人種が多い町(アジア系、ヒスパニック、ユーロ系など)で、日本に戻ってきてからは九州の田舎町というギャップもあって、そのギャップは特にハードだった。
・共感性を持った多様性主張者はまずい。
みんな私のようになるべき、という一方的な主張は多様性を壊す。
とくに24時間テレビは最悪で、多様性といいながらみんなでさらい歌ってるわけ。
24時間テレビは感動ポルノ、と指摘する番組があったが、まさしくである。